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君に聴かせられる最後の最後のギター【ペットロスに苦しむあなたへVol.3】 

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火葬の準備を終え、火葬前にやるべきことを、ある種冷静に、今までの生活を思い返しながら、淡々とこなした。

その時間は寂しさももちろんあった。

あったが、それよりも、安堵・・・と言ったら言葉が違うかもしれないが、不思議と精神的には安定感のある時間だった。

その理由も考えながらポーチーのそばでみんなと過ごした。

余命宣告のあの日、覚悟をしていた

あの日

「余命20日」と宣告された。

あの日

全てを覚悟した。

いや、あの時に“全て”は覚悟できていなかっただろう。

でも、きっと、本当はあの日に、ポーチーとのお別れが訪れる運命だったんだ。

それを僕のわがままで、抗がん剤治療という辛い道を選択させてしまった。

たくさん考えたし、たくさん想った

でもそれはやっぱり結局人間のエゴでしかなくて

すごく大枠で言ってしまえば

動物には病気の概念、寿命の概念はなくて、ただ「なんか気持ち悪いな」とかの話。

それでもみんなと、僕といたくて、その思いのまま、過ごすだけ。

そしてその時が来たら、命が尽きたら、そこが寿命なんだ。

人間もそうだが、基本的に寿命とは病気でなくなることが基本なわいけで、抗いきれなくなったらそこが寿命だし、抗わず、命が尽きれば、そこが寿命だ。それこそが自然死なんだ。

それを人間がわがままで、もっと一緒にいたいから、抗がん剤という、ある種の諸刃の剣を使って、延命して、一緒にいる時間を「半強制的に」伸ばすということなんだ。

もちろん抗がん剤を後悔はしていない。後悔をするなんて、失礼だからだ。

抗がん剤を選択して、本来の寿命の5倍以上一緒にいられた。

最初は余命20日!?でも?抗がん剤治療すれば・・・?

半年!?全然伸びねえじゃねえかふざけんな!

と想っていた。

しかし、振り返れば、20日から伸ばせたたった数ヶ月、いや、長い数ヶ月間が、今の僕のこの精神状態を産んでくれてるのかもしれない。

急にお別れになったら、僕が耐えられないから。たくさんたくさん、気持ちが整理できる時間をくれたんだよね。

ありがとう。

「あの時、本当はお別れだった」

そう思うことで、きっと少し心にバリアが張れてて

その上で、終活生活を、バシッと送れた。

本当に幸せな数日間だった。

強制給餌も投薬もない。あるのはオムツのみ。(これはご褒美なのでやることリストには入らない。)

この終活期間で僕は1mmずつ、少しずつ、お別れへの道をゆっくり歩ませてもらっていたようだった。

「今日かもしれない」「1時間後かもしれない」常にそんな思いで一緒に過ごした。

何度も「し、死んだ!?」とおもった。

だから、いざ本当にこの時が来たあと、今は

妙に落ち着けているんだ。

語弊がある、語弊があるが、敢えてこの言い方をしようと思う。

やっと。

この「やっと。」には、おそらく、いろんな思いがある

抗がん剤を含む、長い闘病から真の意味でやっと、解放してあげられる

辛い身体からやっと、解放されるね

そして、語弊だらけの言い方だが、僕自身が

「いつ、その時が来るか、わからない、恐怖から」やっと、解放された。

そんな気持ちも、ほんの少しだけあった。

終活生活は本当に、毎分、いつ亡くなるのか?不安でならなかった。

それを見守る僕も、猫たちも、そして何より、ポーチーも、何度も何度も、その状況に晒され、辛い瞬間もあったんじゃないかなって。

でも、それでいいんだ、と。何度でも繰り返せと、ポーチーのタイミングに全てを委ねるぜ!

と強がっていた。

しかし、いざその時が来て、火葬までの時間で、あらためて

やっと、この時が来たんだね」

と想った。

この「やっと」にはネガティブな意味なんて一つもない。

「闘病の世話がやっと終わったぜ」的なそんな「やっと」ではない。

この時間で、僕は、ただそう想った。

深い意味もないし、特に何も考えてなどいないのだが

この火葬までの大事な空白の時間のスタート地点で僕は

「やっと・・・か。」

なぜか、そう思ったんだ。

「やっと、お別れできるね」

なんて寂しいことは言いたくはない。

でも

「やっと、次会うための準備ができたね」

と、そう言いたい。

思い出した大事なこと

そんな謎の時間を少し過ごしたのち突如思い出した。

そうだ。

終活でも突如思い出して。本当に大事な時間となった

ポーチーとのギター時間。

今、まだポーチーきっとここにいるよね。

今弾いたら、聴いてくれるのかな。

喜んでくれるのかな。

そう思った瞬間、僕は気づけばギターを手にしていた。

終活時に、もう動かない、動けない身体で、僕のギターを聴いてくれて、身体を動かしてくれて

こっちを向いて聴いてくれてたポーチーは

もう、動かない。

いくらギターを弾いても、声をかけても、触っても、撫でても抱いても、動かない。

ああ、これが、死か。

僕はここで痛感した。

なんて残酷なんだ。

数時間前までは動いていたのに

数日前はまだ歩けていたのに

数週間前はフラフラしながら猫圧してたのに

数ヶ月前はご飯も自分でなんとか食べて

自分で寝たいところを選んで寝ていたのに

半年前は

あんなに元気だったのに

呼んでも呼ばなくても秒速で飛んできて

ただただ幸せな時間だったのに。

数ヶ月。たった。数ヶ月

そんなことを思いながら、ギターを爪弾いていた。

ギターを弾く手が震える。

何を、どう弾いても、何を弾いても

動かない。

「このフレーズならどうだ?!」

「ポーチーEのキーが好きだったよね!?」

いつもは何も考えずに弾いていたのに、こうやって無駄なことばかり考える。

でも、諦めろ。僕。もう、動くことはないんだ。

そう自分に言い聞かせているとふと思った。

いつもポーチーとギターを弾く時は「作曲中だ」

僕はポーチーとのギタータイムは、ギターの練習や何かの曲を弾いているわけではなくて、

作曲家としてのお仕事のために曲を書いていることがほとんどだった。

今はなんか「ポーチーこれ好き!?」とかやってるけど、これって、当時から考えたら実はあんまり当たり前じゃないな。

突然そう思い立ち、

火葬まで1時間程度。

この短い時間で

一曲書いてみよう。

そう思った。

何の意味もない。それが、「いつも通り」で「当たり前」だから。

ポーチーの横で頭を抱えながらギターを弾いて、煮詰まったらポーチーを触る。

ただそれだけの日常。

でもそれこそ至高の日常。

僕らの当たり前。

作曲の経験のない方にはわからないことだと思うが

「1時間!?無茶な!?」と思うかもしれないが、僕ら商業作曲家はとんでもない短さの締切を日々食らっているので、

「火葬までの1時間くらい」

なんて普段から考えたら特別やばいこともない。

僕は仕事で音楽をやるにあたって、

“締め切りがある状態”に慣れている。

どころか、締め切りがある方が書ける。

ポーチー。最後の、本当に、最後の!

“当たり前”一緒に過ごそ!

僕がギター弾いて、ポーチーが横にいて。

みんなが周りを走ったり、寝たり、ゴロゴロしたりして、楽しく過ごそ!

生前と同じ画角で、動画を撮影しながら、ただひたすら作った

そんなこんなでできたのが「ずっとおにのターン」

そんなに深く考えないで作ったし、商業的にとかバズらせたいとかそんな感情は一切なしで、

ただずっとおにのターンでいたいこの気持ちをただただ曲にしただけ笑。

普段やらないアレンジでグダグダだし、音もめっちゃ正直気に入ってないのだけど、この中途半端な感じもまたきっと”当たり前”何だなって。

そう思いたい。

次ポーチーと会えるその時にでも完成させるよ。

「やっとおにのターン!!」とかかな笑。

最後の最後まで、僕のわがまま炸裂で、ごめんね。ただただ、ありがとう。

撮った動画を見返した時にきがついた当然の事実

「どんな映像になってるのかな」

そう思い、動画を早送りで見返していると、とある当然すぎる事実に気がついてしまった

動画を早送りで見ていると、そりゃ被写体が素早く動く。どんどん時間も経って陽が翳ったり明るくなったり

僕の指がシュババババ!と動く。

でもね

ポーチー

ちょっとも動かないんだ。

寝てるように見える。

でも

動画のどこに再生バーを持って行ってもどんなに早送りしても

ポーチーの時間だけは止まってて

その現実が

すごく辛かった。

この動画を見返したのは火葬後だったが、動画を見返すと現実に押しつぶされそうになって、たくさん泣いた。

でも。

最後に、僕のギター、作曲、付き合ってくれて、ありがとう。

お骨になって、家に戻ってきてからは、また、毎日たくさんギター聴かせるからね。

元気に!最強の運動神経で!飛んでこい!!!!!!!!

こうして。

短すぎる火葬までの時間を、終えた。

ギターを片付け、ポーチーを抱く。

ここにいるのに、さわれているのに、ずっと捕まえられないまま。

おにのターンはずっと僕

必ず、また捕まえに行くからね

次回

火葬場へ

「愛猫が余命20日と宣告されました」が書籍化されました

獣医師の服部幸先生監修の元、この闘病記録が書籍化されることになりました。

ここまでたくさん読んでくださった皆様にも、今一度読んでほしい。

僕の心の中全てを書いています。

抗がん剤や、闘病の過ごし方など素人である僕の知見だけでは心許ないですが、一流の獣医師様監修で、闘病についても安心してお読みいただけると思います。

そしてなんと・・・表紙のイラストは、なんとあの「はせがわゆうじ」先生。

メンツが豪華すぎる書籍

その主人公はポーチー。

僕たちが過ごしてきた、闘ってきた日々が誰かの救いになることを願って、書籍化しました。

この闘病記録、僕の考え方をブログやSNSで日々発信していく中でたくさんの方が「心が救われた」と伝えてくださりました。

この本が動物病院等へ置かれ、僕と同じ境遇になってしまった方へ少しでも多く届られればと思い、初版印税の一部を寄贈のために使うことを決めました。

僕と愛猫ポポロンの闘病の日々が、たくさんの猫ちゃん、そして飼い主様の心を救う手助けに、少しでもなれば幸いです。

書籍を院内や施設内に置いてもいいよ!という方は、書籍をお送りさせていただきますので、下記フォームからご連絡いただけますと幸いです。

是非「猫飼おうと思ってるんだよね!」と言ってる知人友人様にも、動物と暮らすことの忘れてはならない大切なこととして、この本をお勧めしてみてください。現実を知ることの大事さ、忘れてはならない事実があるんです。

きっと、僕と同じように闘病や、ペットロスで、苦しんでいて、でも、僕とは違って、ずっとずっと暗闇にいるような感覚のままの人もいると思います。

僕を真似しろ!とは言いません。

でも、愛猫との別れを経験したとしても、僕のように受け止めて僕のように過ごして僕のように落ち着いて過ごすことは、誰でもできるんです。

この本にその正解が書いてあるわけじゃない。

でも「考え方」の参考くらいには、なるかもしれない。

そんな気持ちで、作った本です。

過去にたくさん書籍出版していますが、今回ほど思いを込めて書いたものは、当たり前ですが、ありません。

この本が売れたらポーチーが蘇るとか、そんなわけでもないです。

でも、この本のおかげで、どこかの誰かが、愛猫との最期の瞬間や、闘病の過ごし方を、1mmでも有意義で、幸せな時間にしてもらうことができたなら僕とポーチーの闘いに、意味があったのだと、そう思える気がします。

僕らの大切な記録が誰かの役に立ちますように。

世界の猫が、世界の猫と暮らす人々が、もっと幸せでありますように。